迷走記録

とりあえず自分を生かしてみようと、なんとなく頑張る話。

何で生きているのだったか

分からなくなりました

いえ、意味なんて無かったはずです。

そのはずなのに、なぜか、生きる意味を探していて。

いえ、意味は無いけれども、楽しんで生きようと、人生を楽しみたいと、思っていたはずなのですけれども。

そんなことは、もう、どうでもよくなって。

 

ただただ、つらくて。

生きるのが、つらくて。

寂しくて。

悲しくて。

しんどくて。

ただただ、居なくなりたくて。

 

何をする気も起きなくて。

このまま目が覚めなければ、それはどんなにか幸せな事だろうかと。

 

けれど、けれど、父の存在だけが私を引き止める。

 

父より先に死ぬなんて。

父に、子を失う悲しみを味あわせたくなくて。

私がどんなに出来損ないでも、人間として不出来でも、父はきっと悲しんでくれると思うから。

だから、だから。

父が死んでしまうまでは、生きなくてはと。

 

生きる楽しみ

何のために

生きる楽しみが欲しい。

生きてて良かった、と、思える何かが欲しい。

私は、独りを楽しむのが、下手くそなんだと思います。

余暇の過ごし方が、分からない。

小説を読む。それも楽しい。

ウィンドウショッピングをする。それも、楽しい。

でも、生きてて良かった、とは思いません。

 

暇な休日にぼーっとしていると、ふと考えます。

何のために生きているんだったろうか、と。

以前、何かで読みました。

「思い煩うことはない

 人生に意味はないのだ」

その通りだと思います。

その通りだと思います、けれど。

 

今までは、家族の中で、実家で生活していました。

両親と夕飯を食べる。

何気ない会話をする。

週末に一緒にお酒を飲んで、少し贅沢をする。

それだけで、幸せでした。

少しずつ老いていく両親を見るのは辛い。けれど、それ以上に、同じ空間を共有出来ることは、嬉しかったし、幸せだった。

 

もう、あの中には戻れません。

いずれ、そうなる時は必ず来たのです。

両親は、いつまでも元気でそこにいるわけではありませんから。

それは分かっていましたから、両親と穏やかな時間を過ごすことは、至福の時間でした。

けれど。

もう、私はあの中へは戻れません。

両親はまだ元気ですが、でも、あの中にはもう戻れません。

いずれ来る時が、今来た。

ただそれだけのことです。

 

クリスマスを、正月を、独りで過ごし。

幸せを感じた日々は、今は遠い。

 

最近はやっと独りにも慣れて来ました。

「ここはどこだったろう」、そんな風には最近思わなくなりました。

ちゃんと、ここが自分の部屋だと、思えるようになりました。

だから、余計に。

どうして、生きているんだろう、と。

仕事でそれなりにつらいこともあって、なんとかお金を稼いで、家計簿を見つめて、それなりの生活をする。

余暇に買い物に出かけて、小説を読んで、そうしてふと息をついた時に。

 

つらい思いをしながら、でも、どうして生きているんだっただろうか、と。

幸せも何もないこの日常は、何のためだっただろうか、と。

 

だから。

楽しみが欲しい。

これのために生きてる、と思えるような、何か楽しいことが。

あの国へ旅行に行くことは、楽しみに成り得ます。けれど、毎週、あるいは毎月、行くことは出来ない。

だから、もっと何か、身近な何か。

生きていたい、と思える、何か楽しいことを探したい。

 

認められること

人から認められたい欲

こんなツイートを見つけました。

内容を読んで、そうだなぁと思いました。

承認欲求。

私もとても、それが強いと感じます。

認められたい。居場所が欲しい。

全くその通りです。

だからこそ、身動きが取れなくなって、どうしようもない。

気持ちがキツくてしょうがない。

だから、4枚目の画像にあるように、

「まず、他人がうんぬんを一旦忘れて自分で自分を認めてみる

というのを、やってみたい。

 

試しに、私に向かって心の中で呟いてみました。

 

「がんばったなぁ。

 毎日休まずに、真面目に仕事して。

 ご飯もちゃんと食べて。

 生きて。

 がんばったなぁ。えらいなぁ」

 

不思議ですね。

それだけなのに、涙が出て来るのです。

 

私は小説を読むのが好きでよく読んでいるのですが、「がんばったなぁ」そう言われるシーンを見ると、涙が出ます。

自分と重ねていたのでしょうか。

 

「がんばったなぁ」

 

その言葉が、ずっと、ずっと、欲しかったのかもしれません。

私が、いろんな事にがんばって、疲れ果てていることを、知って、認めてほしかったのかもしれません。

だから、

 

がんばったなぁ。

もう、がんばらなくていいよ。

 

そう、いつか自分に言ってあげたい。

 

消えたくて、そのことばかり考える

月に一度、消えたくなる

どうしても、月に一度のこの時期は、無性に消えたくてしょうがなくなります。

消えるのは怖い。死ぬのは、怖い。

でも、居なくなってしまえば、怖いと思う事もなくなる。

嫌なことも、つらいことも、悲しいことも。全部、全部、きれいさっぱりなくなる。

そういう世界へどうしても行きたいのだと。無性に思えて仕方がないのです。

 

行きたい国がある

好きな国があります。

消えたい、そう思っても、もう一度あの国に行くまでは、もう一度あの国の空気を吸うまでは、そう思って頑張れます。

あの国へ行って。

綺麗な夏の青空のもとで、綺麗な町並みを見て、のんびり旅をしたい。美味しい物を食べたり。素敵な人達とおしゃべりをしてみたり。知らない場所に行って、新しい事を知ることが出来たり。

そう考えて、それが出来るなら、それをするまではもう少し生きてもいいんじゃないかと、思えます。

少ないけれど、この貯まったお金を使って、ささやかな贅沢をしながら、穏やかな時間を過ごしたい、と。

 

でも、決まってこの時期に思うのは。

 

あの国に行きたい。

あの国へ行って、帰ってきて、お土産を両親に渡して、そうしたら。

何も思い遺す事もなく、死ねるんじゃないかと。

もしそれを実現することが出来るなら、それはなんて素敵な事なんだろうか、と。

そう思えて仕方がない。

 

それに、そう思うと、すっと心が軽くなります。

 

そこまで頑張ったら、もうそれから先は頑張らなくていいのだと考えると、心が楽になります。

お金の心配もしなくていい。

つらい事や嫌なことに、煩わされることもない。

思い悩む事は何一つ無くなる。

もう、居なくなる、から。

 

月に一度のこの時期には、決まって、それが一番幸せな死に方に違いないと、そう思えて仕方がないのです。

いつ死ぬのが幸せなんでしょうか

最近よく考える

人は、いつ死ぬのが、幸せなんでしょうか。

死んだ後に幸せも何も、ないでしょうけども。

最近良く、考えます。

人は、いつ死ぬのが幸せでしょうか。

この先生きていても、きっと私は一人で死んでいくのだろうと考えます。一人で、誰にも看取られずに、自分でも気がつかない内に死んで、そうして無縁仏になって公共墓地の外れに埋められるのかと。

そんなことばかり考えます。

そんな死に方をするのなら、むしろ今死んでしまった方が、幸せなんじゃないかと。

泣いてくれる人がいる内に、葬式を出してもらえそうな時に、死んでしまった方が、幸せなんじゃないかと。

そんな気がしてしょうがないのです。

 

人はいつ死ぬのが幸せなんでしょうか。

どうせ、100年後には皆死んでいるのです。

たくさん楽しいことがあったって、たくさんお金を持っていたって、どんなにつらいことがあったって、結局皆死ぬのです。

いつ死ぬかなんて基本的には選ぶことは出来ないとは思いますけれども、そうでないこともあると思います。

 

人は、いつ死ぬのが幸せ、なんでしょうか。

 

 

気分が下降する時

大体スイッチがある

気分が下降するのは、おおむね、大体、何某かのスイッチが押された時のようです。

それは自分で押すというより、環境や人によって、私の中の何かに触れた時に押されるもののようです。

おそらく、何か見たり聞いたりしたことが、私の琴線に触れるのだと思います。

それは明確なものもあれば、薄ぼんやりとしていることもあります。

けれど、ここ1週間は、明確にああこれは、と思った事が2度ありました。どちらも、それは母からのLINEでした。

私は諸々の事情があって、弟と絶縁しています。

いえ、私は絶縁していると思っています。

母や弟は何かと声を掛けてこようとするのですが、私は無視しています。なぜかはまたいずれ書くとして。

弟は今、夫婦で私の両親の住む実家に居候しています。

母は、私と弟が険悪な状態であることを良く思っていません。そして、母は、その状態の原因の全てが私にあると思っています。私の気持ちを汲み取ろうとしてくれた事はありません。

私は今年のクリスマス、大晦日、正月を一人で過ごすと決めていますが、母は「どうして帰って来ないのか」と言った態度です。

私も少しは自分なりに説明したつもりですが、母は全く理解を示してくれませんでした。

私の気持ちを理解しようとしないのは良い。

それはいいから、だから、放って置いて欲しい。

これは贅沢なわがままなのでしょう。

弟の1歳に満たない子供の写真を、家族全員のいるLINEグループに投下したりします。堪えました。倍つらかったです。

私には嫌がらせ以外の何物にも見えません。私が捻くれているからなのは分かっています。けれど、これは自分でどうしようと思って出来るものでもないのです。出来るならとっくに直しています。

思わず、家族全員のLINEグループから退会しました。

 

言えるものなら、言いたい。

「本当にそういうの、やめて。死にたくなるから」

そう言ったら、母はどんな顔をするでしょうか。

 

何か口にしようとすると

ここ最近、ご飯でも間食のお菓子でも、何か口に入れようとすると、涙が出て来るようになりました。

そして、消えたいと強く思います。その後もずるずると、漠然と、消えたい、消えたい、と頭の中で繰り返して、しばらく消えません。

多分、物を食べるというのは、私にとって、温かい思い出と結びついているのだと思います。だから、それを思い出して、今の状況と勝手に比べて、そして勝手に涙が出て来る。

困ったものです。

今年の年始も、去年もそうでした。

今回の年末年始も、心穏やかに過ごせそうにはありません。

けれど、それはどこに居たって同じに違いありませんので、一人で居ることは、むしろまだ救いなのだと思います。外的要因を、最小限に抑えられますから。

もし可能なら、12月29日から1月3日まで眠っていたい。一度も起きる事なく。

泣くとすっきりすると言いますが

泣くこと

泣くとすっきりする、と言っているのを聞いたことがありますが、あれはドラマや小説の中の話、だと思うのですが、違うのでしょうか。

涙が溢れる時、それはつらくて苦しくて、それが勝手に涙となって、溢れ出すものです。少なくとも私にとってはそうです。

 

疲れた時

新卒で入った会社は東京でした。慣れない東京での一人暮らし。

残業が辛くて、家に帰り着いて玄関を開けて、「ああ帰ってきた」と思った瞬間に、涙が溢れました。

疲れていました。

気持ちも体も、疲れていました。

それで、安心したのでしょうか。涙が溢れて、ベッドに座り込んで、いっとき泣きました。

 

 寂しい時

東京のアパートの私の部屋です。一人でご飯を食べている時でした。

確か何かのサラダを作って食べていたと思います。

なぜか、サラダを口に入れた途端に、涙が溢れました。美味しいからではありません、不味かったわけでもないと思います。

夕食は、実家であれば、その日あったことを両親に話したりする所です。

一人の食卓が、寂しかったのだと思います。

 

つらい時

比較的最近の話です。

今の仕事は楽しかったのですが、上司とあまり上手く行かず、プロジェクトも上手くいかず、行き詰まっていました。

上司に相談出来なくて、でも先方にはせっつかれ、3ヶ月ほどその状態が続いていて、でも締め切りは刻々と近づいてきます。今思えば気持ちが疲弊しきっていたのでしょう。

今のプロジェクトの事で相談させてほしい、と別の上役2人に相談を持ちかけました。

プロジェクトは始まりも曖昧に始まっていましたので、そもそものマネージメントの仕方がまずいことは、二人も理解してくださいました。

その上で、私の直属の上司に言ってみたら、と言われました。

それはそうでしょう、プロジェクトのマネージメントをしているのは直属の上司です。上役2人ではなく、まず直属の上司に相談するのが、本来なら筋です。

けれど、私はそれを言われた時、言葉が出ませんでした。

上司に相談したって、今までして来ていてこの現状が生まれているのだから、それでは何も変わらない、という絶望感。

相談した所で、また辛辣な言葉を聞かなければいけないし、一言もらう度に心に重りを付けられるような疲れるやり取りを、またしなければいけないのだという、疲弊感。

その場で「上司に相談すること自体が出来ないのです」と言いたかったけれど、けれど出てきたのは涙でした。

これは、一番私の忌み嫌う行為です。

涙を見せると、どうしたって同情を買うでしょう。

そうすると、男性社員は思うでしょう、涙で同情を買うなんて、と。泣かれたらどうしようもなくなるじゃないか、と。

そう思われたくありませんでしたし、何か目的のための手段として涙を使うなんて、ありえないことです。何より、人前で涙を見せるということをしたくありませんでした。

したくなかったのに、耐えられなかったのです。

溢れる涙を、止められなかったのです。

そこで初めて、上役2人は私の現状を、はるかに重く受け取めたようでした。

私は、自分はもうきっとここまでなのだ、と思いました。

 

ふとした時

何かのスイッチがあるのだと思います。

それは酷く些細なことだったりします。

でも、決まって、暖かかった過去と、今を見比べている時だと思います。

今の自分を見て、そしてこれからを考えて、もう自分はどうしようもないんじゃないかと。そんな風に思うのだと思います。

じわり、と涙が滲みます。

でも溢れなければ、まだ誤魔化すことが出来ます。私は、知らないふりをして、その気持をやり過ごそうとします。

 

泣くことは

ただただ、つらいだけ。

何もいいことはありません。少なくとも、私にとっては。