まず、Facebookを見るのがつらくなった
Facebookってこんなだっけ
本来は、海外の友達と連絡を取ったり近況を知るためのツールとして、Facebookに登録しました。
30の呼び声が聞こえて来る頃、同級生や友達が結婚した、出産した、という投稿を目にするようになってから、段々とFacebookを開くのが億劫になってきました。
もともと3・4日に1回くらいで、そんなに頻繁にFacebookを開くわけではありませんでした。けれど数日に1度Facebookを開く度に、知り合いの幸せそうな報告が不意をついて飛び込んで来るのです。
どうしても、
「じゃあ、自分は?」
と考えてしまうようになりました。
他人の幸せそうな写真を、最初はいいなーという特に変わりない気持ちだったのに、それがいつの頃からか、その報告や写真を見る度に、ズシン、と心が重くなるのです。
親友の結婚、そして出産
小学校からの親友、そして大学での親友、と立て続けに結婚式に出席しました。それ自体はとても喜ばしいことでしたし、結婚式では心から祝福しました。
その、はず、だったんですけれども。
正月、年賀状で、その二人が妊娠した事を知りました。
その、衝撃たるや。
自分でも驚いた程、衝撃を受けてしまったのをよく覚えています。
なぜあそこまで衝撃を受けたのか。今でもよく分かりません。きっと、焦りに近いものだったのだろうと思います。
でも、1つには。
なんでハガキでの報告なんだろう。
というのがあったように思います。
親友と思ってたのは、私だけだったんだな、と。最初は結婚しましたの年賀状、その次の年は妊娠しましたの年賀状。
正月で兄と姉夫婦が子供連れで帰省し、慌ただしく、そして奴隷のように家事手伝いをしていた当時無職の私を軽くひねりつぶすくらいの衝撃はあったのです。
もともと筆まめではありませんでしたが、2年連続で年賀状は返しませんでした。
さすがに、その次の年に年賀状を送ってくることはありませんでした。
出産の報告もFacebookだった
今はそれが普通なのでしょうか。
出産の報告も、Facebookの投稿を見て知りました。
あ、そうなんだ、と。
きっと私は、直接連絡が欲しかったのでしょう。自分の器の小ささにはほとほと呆れてしまいます。
私にとっては数少ない親友でも、彼女たちにとっては、大勢いる親友の内の一人でしかないのだと分かって、がっかりしたのもあるかもしれません。
こんなみみっちいことを言っているから行き遅れるんだな、と。
分かっているつもりでも、寂しくて、焦燥は大きくなるばかりで、ただただ一人で泣くことしか出来なかったのです。
運が悪ければ夜寝られない
以前、久しぶりにFacebookを開いた時のこと。後輩の妊娠出産の投稿が目に飛び込んできました。
美人で、溌剌と発言する賢い人でした。
Facebookを開いたことを猛烈に後悔しながら、すぐに閉じました。
その夜、眠ろうと布団に入ると頭に浮かぶのはこの先の将来の不安ばかり。
自分はきっとこの先、ずっと一人で生きていくんだろうな、とか。
誰にも看取られずに、一人で死ぬんだろうな、とか。
役所の人が来て、適当に火葬されて、無縁仏になるのかな、とか。
それなら、死にたいと思ってる今死んだ方が幸せなんじゃないだろうか、とか。
今なら、葬儀も出してもらえるだろうし、少なくとも両親は泣いてくれるだろうし、とか。
両親の死に目に合わずに済む。でも、両親より先に死ぬなんて、なんて親不孝なんだろう、とか。
考え出すと、止まりません。
自然と涙が出てきます。
その頃は働いていましたので、次の日は仕事です。はやく眠らないと次の日に響きます。
けれど、涙が止まらないので、鼻をかんで、目を冷やして、布団に入って、でも涙は自然と出てきて。また鼻をかんで、目を冷やして。
そんなことの繰り返し。
今では、ほとんどFacebookは開きません。